
北条氏照が城を築いた深沢山には、牛頭天王の八人の王子神である「八王子権現」が祀られていたため八王子城と名づけられた。この城名が市名の由来である。八王子城が豊臣秀吉の小田原攻めにより落城すると、この地方は後北条氏の旧領全域とともに徳川家康に与えられた。交通の要衝であるため、江戸を甲州口から守るための軍事拠点としての役割も担った。徳川家康が武田家の遺臣を召抱えて組織した八王子千人同心の根拠地となったのはそのためである。
そして、江戸時代には関東各地の直轄領(御料)を支配する代官18人が駐在することとなり、武田家旧臣の大久保長安が代官頭をつとめてこの地方の開発および甲州街道の整備にあたった。その結果八王子横山十五宿は甲州街道中、最大の宿場町として、また多摩地区の物資の集散地として栄えた。
開国ののち、明治維新期以降は織物産業が繁栄した。特に生糸・絹織物については市内で産するだけでなく、遠くは群馬・秩父や山梨・長野からも荷が集まり、輸出港である横浜への物流中継地としても機能していた。
1960年代以降は、織物など繊維産業の衰退もあり、かわって東京の衛星都市としての機能が求められるようになった。そのため、市の郊外には多摩ニュータウンなどの大規模な住宅団地や、北八王子工業団地などの工業団地が建設された。
また、都心のキャンパスが手狭になった大学の移転が相次ぎ、学園都市とよばれるようになった。そのため、産学共同研究が近年は盛んである。
市の西部の高尾山、陣馬山などの山々は観光地やハイキングコースとして人気があり、また中村雨紅の生誕地にある『夕焼け小焼け文化農園』なども行楽客を集めている。